2021-11-02 発熱、まどろみ、『あやとりの記』読み始め
16:26
今とは違う名前で、実際の生活を明かすことなくインターネットをしていた頃、みしょうちゃんという友達がいた。彼女の言葉や風景には何故か特別に心を惹かれていた。今でも彼女にもらった景色のようなものがわたしのなかには息づいている。
何故かこのところみしょうちゃんのことを思い出す機会が多い。
みしょうちゃんは名前をアンリ・ミショーからとっていたので、そういえばフランスにいることだし、いつかアンリ・ミショーを原文で読んでみなければと思いながらまだ手をつけられそうにない。 彼女がネットから遠ざかってから、そしてこんなにときが経ってもなにかのさいにふと、彼女の面影を思い出す。一度お手紙を出した気がする。届いただろうか。それともわたしに彼女からの返事が届かなかったのか。
石牟礼道子の本をめくりながら、みしょうちゃんのことを思うとわたしはこの本を読んでいるときのような遥かな部分がたぷたぷとむずかりだすのだ、というようなことを考えていた。生まれるうんと前のような、死んだ後のような波打ち際に足を洗われて、漂い出しそうになる。
そういえば友人が、生まれる前の記憶を持っていると言っていた。
目は見えなかったが、自分という存在が5人いたことがわかったそうだ。5人の自分が、これから生まれる世界について話をしていたのを覚えているという。
あまりにも何度もその囁き声やふれあいそうで触れない肩のぬくみを想像したので、ときどき、肩越しに伺えばその声を再現できるんじゃないかという気がすることがある。
そんなことを考えながら本を読んでいて、
そして赤んぼは、こんな幻を見ていました。底のない無限の穴は、永い永い時間の未生(みしょう)の奥の海、あなたたちが生まれ出る前に漂わねばならぬ、奥万年も前の海の時間を廻っていました。
というフレーズに息が止まる。
未生。
14:34
しっかりと日常の時間軸に立っていたのは10月31日のはんぶんまでだったような気がする。
ふわふわと揺れたり、また目の前に焦点が合ったりしながら、自転車を漕いだり歯を磨いたり、熱湯を入れた瓶を湯たんぽがわりに懸命にからだにくっつけたりしながら、眠ったり起きたりしていた。
本を読むことくらいはできそうだと思うのに、横になるとすぐにまぶたがくっついてしまう。横にたおすと眠ってしまうミルク飲み人形のように。ならば目を閉じて音声で本を読もうとするも、いつだって1ページも覚えていられない。読み上げ機能は「バッテリー残量がありません」という表示で途切れている。
夜、自転車を漕いでいると、自分が家に無事に着くことが奇跡のように思えることがある。
視界が極端に狭まって、ある一点のひかりや、道路に続く白いラインを凝視するからだんだん夢のなかにいるように指先や足先やお腹のなかが浮いてくる。自転車道につけられている自転車のマークがぱらぱら漫画のように連続で見えだす。私は黒い海の上を低く飛んでいるような心地になる。耳を叩く風の音、小雨が降っていればなおさら真実味がわく。しぶきを蹴散らして飛ぶトビウオみたいに、私は猛スピードで夜の海を飛んでいる。くろぐろとした水面の下にほかの生き物が見えないか、目をこらしながら。
全然前方を見ていないことに気づいて、腹に力を込める。
実際に私が催眠状態のようなものにおちいっているのはほんの1秒ほどだろう。でも何度もひやりとする。 いつのまにか11月になっている。
いつのまにか、いつのまにか、とこの1年半が過ぎていった。
(ここでカチューシャに呼ばれてドアを開けに行く)
日常のレールに足を踏み入れようとしては、また家に閉じこもることに引き戻される、という連続は、もともと引きこもることが好きな私には大きな苦痛ではなかったが、当たり前とはなんだったのか、普通という道を疑わずそこから外れずに歩いてきたと考えていた自分はなんだったのかということを問い直す時間ではあった。
紙の本も読みたいので石牟礼道子の『あやとりの記』を布団にひっぱりこんだが、はじめからあまりに鮮烈で、彼岸に引きずられるようで、このところうすっぺらな世界に触れ続けてきたわたしには毒のように感じられるほど色濃くゆたかで危険だった。少しずつ読まないと漂って戻ってこれなくなりそうな気がするほど。しかし、ここに芯ごと溶け込んで、まるごと呼吸したいとも望んでいる。